(出典:Yestercenturypop)
ニューオリンズ ”コルネット3大キング”の1人/フレディ・ケパード(Freddie Keppard)
フレディ・ケパードとは
フレディ・ケパードはニューオリンズ出身のクレオールで、初代ニューオリンズ・ジャズの三大コルネットキングの一人と言われている。他の二人はもちろんバディ・ボールデンとキング・オリヴァーである。二人の存在が大きすぎたためにケパードはもう一つ影が薄いが、その安定的なテクニックと実力はジェリー・ロール・モートンやルイ・アームストロング、アルバータ・ハンターなどもべた褒めするほどのものだった。
しかし、その美しく甘美で優等生的な音色が、聴くものによっては独創性やパワーを感じなかったようで評価が分かれていたようである。
最初のキャリアはニューオリンズで『オリンピア・オーケストラ』というバンドを作り、その後『イーグルバンド』へ入った。1913年には”スラップ・スタイルの父”と呼ばれるベーシストのビル・ジョンソンが立ち上げた『オリジナル・クレオール・オーケストラ』というバンドに参加して、西海岸などをサーキットした。この時にジョージ・バケーとも一緒にやっている。さらにシカゴやニューヨークもツアーして、ケパード自身も一気に名が売れるようになった。
その後も初期ニューオリンズ・ジャズの先駆者としてたくさんのバンドに参加し、自らもリーダーを努めた。
そのニューオリンズのジャズスタイルをいち早くレコーディングすべく、バンドはビクターからオファーを受けた。一気にスターダムへ駆け上がると思われたその時、歴史的な事件が起きる。
歴史的録音を逃したエピソード
ジャズ史上初の録音するチャンスを逃し、歴史的な人物になり損ねたのは有名な話である。事の顛末はこんな感じ。
時は1916年、フレディ・ケパードはジャズで初めてのレコーディングをするというオファーを受けた。
しかしまだあまり音楽がレコードやラジオという形で世の中に出回っていない頃の話なので、ケパードはレコーディングするということにある種の抵抗感があった。その理由として純粋な音楽家であったケパードには、自分たちの音楽が大企業によって陳腐に商品化されてしまうんじゃないかという思いがあったのであろう。
これはまだわかる。
しかし問題はもう一つの理由で、あろうことかケパードは自分の録音したコルネットのテクニックや吹き方などを他人に盗まれると思い、そのオファーを蹴ってしまったのだ。
ご存知の通り、ジャズが商業的に最初に録音されたバンドは『オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(ODJB)』である。彼らのレコーディングは1917年。この時ケパードがオファーされたのが1916年・・・。
つまりこの時オファーを蹴っていなければODJBではなく、フレディ・ケパードは『オリジナル・クレオール・オーケストラ』として商業的に最初に録音されるはずだったのである。ODJBは当然というべきか、かなりの売上と成功をもたらした。
曲紹介
「Stock Yards Strut(1926年)」最も代表的な曲の一つ。シカゴでジョニー・ドッズと組んだ『ジャズ・カーディナルズ』というフレディ・ケパードがリーダーをやっていたバンドの曲。ケパードはスタッカートを得意としていた。
「Salty Dog(1926年)」同じく『ジャズ・カーディナルズ』から。こちらは途中からパパ・チャーリー・ジャクソンのヴォーカルが入って貴重な一曲。
「High Fever(1926年)」シカゴ音楽大学で博士号を持っていた”ドック・クック”というリーダーの『ドリームランド・オーケストラ』というバンドに参加して録った曲。ラグタイムのような軽快な曲だが、この時ジミー・ヌーンとも共演している。
「Here Comes The Hot Tamale Man(1926年)」この曲が最も代表的な曲ではないだろうか。こちらもドック・クックの『ドリームランド・オーケストラ』からで、ラグタイム+ニューオリンズ・ジャズらしく仕上がっている。
「Stomp Time Blues(1927年)」フレディ・ケパードのコルネットがかなり全面に出ているが、この頃はテクニック的にも周りから認められていたようだ。これはジャスパー・テイラーというドラマーがリーダーのバンドでの録音。
「Hit Ta Ditty Low Down(1928年)」これは少し変わり種で、フランキー・ジャクソンというヴォードヴィル芸人がヴォーカルをやっているブルースだが、ケパードが生き生きと吹いているのがわかる。個人的に好きな曲。
もちろんフレディ・ケパードのコルネットに対する評価は今でも専門家の間でも高いが、昔の職人気質の”Musician of Musician”だったので、商業主義というものが許せなかったために、自らの成功と名声を手に入れることが出来なかった。
その後結局1920年代には録音することになるのだが、ジャズ界における歴史的なビッグネームになり損ねたという残念なエピソードが残った。
晩年はアルコール依存症と結核に苦しみ、1933年に息を引き取った。