The Carter Family (カーター・ファミリー)

”アメリカン白人バンドの元祖” カーター・ファミリー(The Carter Family)

カーター・ファミリーというグループが遺した功績というものはかなり大きい。後のカントリーやフォークの基礎を作ったという意味でもそうだし、アメリカン・ポピュラー・ミュージック界全体における影響力を考えても相当なものである。またその活躍した期間も長い。

元々はアパラチア山脈の山奥にひっそりと暮らしていたヨーロッパ移民のスコッチ・アイリッシュの末裔が、その伝統音楽を守りながら少しずつ外界?との出会いから他の音楽を吸収していったようだ。

カーター・ファミリーは、そういった時代にカントリー・ミュージックの初期の形態を作った先駆者である。

しかしながら、実はカーター・ファミリーは結構内部事情が複雑であって、歌詞も暗いものが多い。そのへんは順次書いていきたい。

また、彼らを語る上で絶対に押さえておかなければならないのが、メイベル・カーターの”カーター・ファミリー・ピッキング”というギターの弾き方である。これについても要所で書いていこうと思う。

 

ここからは彼らの楽曲を紹介していこうと思うが、バンドの歴史や功績、そして内情など結構複雑であるため、カーター・ファミリーの曲についてはランキング形式はやめておこうと思う。各曲のスコアをご参考にして頂けたら幸いだ。

そういうワケで、全体は第一期と第二期に分けて書いていく。ただ、個人的に一番好きな曲は第二期の「Wildwood Flower」である。

 

カーター・ファミリー 第一期(1927年〜1943年)

先程も書いたがバンドのメンバー構成と活躍時期は大きく分けると第一期と第二期に分かれる。

第一期というのは、一般的に言われている「カーター・ファミリー」のことで、オリジナル・メンバー3人の構成からなる。おそらく有名なのはその”オリジナル・カーター・ファミリー”の方だろう。

第二期は当初は”カーター・シスターズ”というバンド名から始まって、後にカーター・ファミリーと変名している。

 

オリジナル・カーター・ファミリー

【メンバー】

  • A.P.Carter(アルヴィン・プリーザント・カーター):歌、ハーモニカ、歌詞・メロディ採取 ※以下A.P.カーター
  • Sara Carter(サラ・カーター):歌、オートハープ、ギター
  • Maybelle Carter(メイベル・カーター):歌、ギター、バンジョー

3人ともに、アパラチア山脈南西部の山奥で生まれ、幼い頃からスコッチ・アイリッシュの伝統的なバラッドや民謡を聴き、歌いながら、またゴスペルなどの教会音楽の影響を受けながら育った。

A.P.カーターとサラ・カーターは1915年に結婚し、さらにA.P.の弟であるエズラ・カーターと結婚したメイベルを誘って3人でバンドを始める。

1927年、これは有名な話ではあるが、3人は凄腕プロデューサー、ラルフ・ピアのオーディションを受けるためにテネシー州のブリストルへ向かった。そう、ジミー・ロジャーズも受けたあの伝説のオーディションである。

そして、オーディションに受かったファミリーは早速その年の8月に6曲を吹き込んだ。(ブリストル・セッション)

その中から2曲を紹介したい。

 

「Bury Me Under The Weeping Willow Tree(1927年)」

記念すべき1stレコーディングと言われている曲。最初、「うん?・・どこかで聞いたことあるかな?」と思ったが、日本では「柳の木の下」というタイトルで有名な曲である。元々はイギリスの伝承バラッドなので、カーター・ファミリーのオリジナルではない。

しかしこれを聴いてもイギリスっぽさがなく、やっぱりカントリーやフォークソングに聴こえるのは彼らがやっているからなのだろう。この曲はヒットして、その後もずっとカバーされ続けている、いわゆるスタンダードな代表曲である。

重要度 3.5
知名度 4.5
ルーツ度 3.5
好み 3.0
総合 3.5

 

カーター・ファミリーの音楽の特徴として、メンバー全員が歌えることもあって随所に見られるハーモニーがある。これは教会音楽であったゴスペルの影響が強いと言われており、このハーモニーが今日も続くアメリカでの白人バンドスタイルの基本を作った。

 

 

「Single Girl, Married Girl(1927年)」

こちらも初期のブリストルでのレコーディングからヒットした曲。実は所用でA.P.カーターがおらず、女性2人のみで録音している。このことも、当時ではとても珍しいこととして記録されている。

曲を聴いてもらうとわかると思うが、サラの歌とオートハープ、メイベルのギターしか鳴っていないのに、一発録音でこの重厚さである。つまり、メイベルのギターが少し複雑なことをしているのであるが、説明すると、サラのヴォーカルのメロディ・ラインと同じ音を弾いている低音のベース音に気づくだろうか?

カーター・ファミリーにはベース担当がいない。そう、メイベルがギターでベースラインを弾いているのである。しかも高音のズンチャという音も弾きながら。

★これこそが冒頭で少しお話した”カーター・ファミリー・ピッキング”というもので、1本のギターの低音を親指で、そして高音を人差し指で弾くというテクニックなのである。

このメイベルが編み出したと言われている演奏法は、その後のカントリーやフォークはもちろん、特にアコースティック・ギターでの基本的な弾き方として、今日までずっと続いている弾き方なのである
さらに、メイベルがこのようなギターの弾き方をするまでは、ギターは伴奏楽器として扱われていたが、リード楽器として見直されるようになったのも凄いことである。
ギターを弾いたことのある人であれば、その偉大さがとてもわかるかと思うが、メイベルは”ギターの母”とも呼ばれている。

重要度 4.0
知名度 3.5
ルーツ度 4.0
好み 3.0
総合 3.5

 

 

カーター・ファミリーの曲を聴くと、「A.P.カーターって何しているんだ?」って正直僕は思ったのだが、基本的にはコーラスをしているくらいで、あとは南部のいろんなところへ行って、バンドでアレンジするための歌詞やメロディなどの音源を探しにいっていたようである。
そして、その最中に出会ったのが、黒人ブルースギタリストの「レズリー・リドル」という人物で、後にサラやメイベルが影響を受けたという話がある。
そのレズリーの奏法を参考にしてメイベルがカーター・ファミリー・ピッキングを編み出したという説が強いが確証があるわけではないらしい。。。

 

 

「Wildwood Flower(1928年)」

歴史的名曲である。元ネタはイギリス民謡であるが、アメリカで形を変えながら、1928年にカーター・ファミリーが編曲した。そしてカーター・ファミリーと言えば、この曲は外せない。

このバージョンは最初期のもので、ほとんどメイベルのギターとそこにサラのオートハープが重なっているくらいに聴こえる。ヴォーカルもサラだけでA.Pも入っていないシンプルな音に仕上がっている。しかしこの曲では特にメイベルの弾くベースラインが際立っており、口ずさめるくらいである。

ちなみに1935年にはコーラスを入れたバージョンで録リ直しているが、より厚みを増したサウンドとアレンジで、さらに曲の良さが目立っている。こちらはテンポを落としているが、ギターを含めて音のツブがはっきりしている。

「Wildwood Flower(1935年)」

 

重要度 3.5
知名度 4.0
ルーツ度 3.5
好み 3.0
総合 3.5

また、後ほど第二期で紹介するバージョンを是非見て欲しい。特にメイベルが最高にカッコいい。僕はそれを見て一気に惹かれた。

 

 

「Little Darling Pal Of Mine(1928年)」

この曲はフォーク・ミュージックの祖と言われているウディ・ガスリーの名曲である「わが祖国」の基になったと言われているとても重要な曲。ボーカルのメロディ・ラインは確かに聞いたことがあるような感じだ。

また、この曲では珍しくメイベルがスライド・ギターを弾いているのだが、リゾネーター・ギターだろうか?メイベルは本当にマルチにいろんな楽器を使いこなせたことがわかる。

重要度 4.5
知名度 4.0
ルーツ度 4.0
好み 3.5
総合 4.0

 

 

「Keep On The Sunny Side(1928年)」

この曲もカーター・ファミリーの中で最も代表的なものの一つである。元ネタはアメリカン・ポピュラー・ミュージックだが、彼らの大ヒットで有名な曲になった。「どんなに大変でも陽気にいこう!」といった前向きな歌詞で、今も歌われ続けているスタンダード・ナンバーとなっている。

重要度 4.0
知名度 4.5
ルーツ度 3.5
好み 3.5
総合 4.0

 

 

ところで、あまり知られていないがカーター・ファミリーというバンドはデビューしてから順調にヒット曲を連発して、この頃も順風満帆に見られているが、実はそうではないあまりよろしくない事情を引きずって活動をしていた。

個人的には書きたい内容ではなかったのだが、少し説明しておきたい。↓

カーター・ファミリーとして活動をしていた当本人であるA.P.カーターとサラは結婚して夫婦ではあったのだが、実は仲が良くなかったらしい。というよりかなり危うかったのである。
どういうことかというと、歌詞やメロディ集めに南部を放浪する癖のあったA.P.は、ヴァージニアに置いてきたサラと子どもたちのことが不憫だったので、従弟のコイ・ベイズにフォローしてもらうように頼んだ。
すると、あろうことかサラとコイが禁断の恋に陥ってしまい、一家はバラバラ状態に。
A.P.はそんな2人が許せなかったが、音楽やレコーディングは収入を得るために必要だったので、お互いに我慢して、夫婦を演じ続けたのである。そんな状態の時にこれだけの代表的な曲を生み出し、仕事と割り切って?彼らは活動し続けたというのだ。

半ば信じがたい話ではあるが本当のようである。現に数年後A.P.カーターとサラは離婚する。

 

 

「Wabash Cannonball(1929年)」

これも原曲はアメリカ民謡で、19世紀にアメリカ中西部を走っていた「ウォーバッシュ鉄道」のことを歌っている。やはりオールド・アメリカンにおいて鉄道は切り離すことができない重要なファクターであって、そこにはいろんなドラマが登場する。

この曲もカントリー、フォーク・ミュージックにおけるスタンダードとなっており、レコーディングはカーター・ファミリーが最初となっているが、なんとその後ロイ・エイカフやジョニー・キャッシュ、ビング・グロスビーなど80以上ものミュージシャンによるカバーが記録されている超有名な曲だ。

重要度 3.5
知名度 4.5
ルーツ度 3.5
好み 2.5
総合 3.5

 

 

 

「I’m Thinking Tonight Of My Blue Eyes(1929年)」

先ほど、「Keep On The Sunny Side(1928年)」のところで、カーター・ファミリーの黒歴史というかサラの不倫について触れたが、この「I’m Thinking Tonight Of My Blue Eyes」では、バンド自体を崩壊へ向かわせる事件が起きる。

元々この曲はA.P.カーターが放浪中に発見したヒルビリー・ソングだった。歌詞の内容は悲しくもかなわない愛の歌である。カーター・ファミリーは最初のレコーディングを1929年にしてその後リリース。ヒットもした。

サラとA.Pの従弟のコイ・ベイズが恋に落ちた話をしたが、実は無理矢理に親族たちに2人は引き離されていた。二人を離すためにコイ・ベイズとその家族たちはカリフォルニアへ引っ越していたのだ。

サラはお金のためにA.P.とメイベルとカーター・ファミリーを続けていたが、コイのことはずっと忘れられなかった。

そんな状態で夫婦生活を続けることなどできないので、A.P.とサラは1936年に離婚する。でもカーター・ファミリーはお互いの生活のこともあるために仕事として続けたのである。

「コイはもう自分のことなど忘れてしまったのだろうか?・・・」そんな想いを内に秘めたままサラは活動を続けた。

そんなある日、サラはメキシコのあるラジオ局での放送中、遠くのコイに捧げるといって、「I’m Thinking Tonight Of My Blue Eyes」を突然歌ったのである。コイはそれを聴いていたようで、二人は後に結ばれるのであった。

一見、素敵な恋話のようだが、皮肉にも元々はA.P.が見つけてきた曲なのだ。その時のA.P.の心境はどんなだったろうか?子どもたちは?下手すれば殺人とか起きててもおかしくないんじゃないかと思うのは僕だけだろうか。。。

そしてコイとサラは結婚した。テキサスに住むことになり、サラはもう音楽をやる気がない。バンドが解散するのは時間の問題であった。

重要度 3.5
知名度 3.5
ルーツ度 3.5
好み 3.0
総合 3.5

 

1943年、サラはコイの親が住むカリフォルニアへ移住することを決め、バンドは解散した。

 

 

「Worried Man Blues(1930年)」

この曲も彼らの代表曲であるが、元はA.P.カーターの収集ネタ。どちらかというとその後ウディ・ガスリーやピート・シーガーなどのフォークの大御所たちがカバーをして、トラディショナル・フォークソングとして定着している。

重要度 3.5
知名度 3.5
ルーツ度 3.0
好み 3.0
総合 3.0

 

 

 

「Can The Circle Be Unbroken(1931年)」

カーター・ファミリー史上最も有名な曲といえばこれではないだろうか。ほとんどの人が1回くらいは聞いたことがあるのではないかと思う。

元はゴスペルの賛美歌で、これも多くのミュージシャンにカバーされている名曲である。1998年にはグラミー賞で殿堂入りしていると言えばどのくらいの曲かは想像がつくだろう。

歌の内容は母親の死と葬儀に関するもので、家族の絆について歌ったもの。アメリカでは今も葬儀で歌われることがあるようだ。

重要度 3.5
知名度 5.0
ルーツ度 4.0
好み 3.0
総合 4.0

 

 

 

「The Carter Family Visits Jimmie Rodgers in Kerrville, Texas(1931年)」

この頃の事件として見落としてはいけないのが、カーター・ファミリーとジミー・ロジャーズの共演である。

この曲では設定としては、カーター・ファミリーがテキサスのジミーの家を訪ねて「T For Texas」を一緒に歌うというものだが、実際はケンタッキーのルイビルで録られている。このセッションは今となっては歴史的な出来事と言えるだろう。また、他にも数曲録っているので気になる人は調べてもらいたい。

重要度 4.0
知名度 3.5
ルーツ度 3.5
好み 2.5
総合 3.5

 

 

その後もヴィクター傘下のブルーバードレコードに1934年まで大量に録音しまくるが、有名な代表曲はほぼこの時にリリースされている。しかし時代背景としては、世の中が大恐慌で決して良い状況ではなく、アパラチア地方は特に貧しかったようで、歌詞の内容も自然と辛さや苦しみが題材になることが多かったようだ。

 

 

「East Virginia Blues No.1(1935年)」

メイベルのカーター・ファミリー・ピッキングが冴えまくっているイントロから始まる。これなんか、後のフォークソングのお手本のようなギターである。ARCレコードへ移籍後のレコーディング。

この曲もいろんなバージョンがあるようで、元はアパラチアン・ミュージックみたい。もはやオリジナル・カーター・ファミリーとしては後期に入っており、コーラスも含めて安定した演奏になっている。

重要度 4.0
知名度 2.5
ルーツ度 3.0
好み 3.5
総合 3.0

 

 

 

「Are You Lonesome Tonight?(1936年)」

A.P.カーターとサラの裏事情を知っていると、なんかとても悲しくなる曲。動画の編集がとにかく素晴らしい。デッカ・レコードからのリリース作品。

サラの声が低いから余計にそう思うのか、内容的にブルースに近い感じなんだけど、切なく感じてしまう。バンドの終わりが近づいているような・・・。

重要度 3.0
知名度 3.0
ルーツ度 2.5
好み 3.5
総合 3.0

 

 

 

「Rambling Boy(1941年)」

1939年にメイベルの娘であるジューン・カーターが弱冠10歳ほどであったが、ファミリーに加わることになった。

1940年からバンド解散の1943年まで再びブルーバードレーベルに戻って数曲をリリースしたカーター・ファミリー。それまでしばらくの間、ラジオをメインでやっていた。やはりバンドの内部事情のこともあってか、不況のアオリが長引いたこともあって、ヒット曲が少なくなっていった。

その中でも、この曲は後の大御所フォーク・シンガーとなるランブリン・ジャック・エリオットがレパートリーにしていたことで、フォークファンの中でもカーター・ファミリーの名前が知られるようになっていった。そして、1960年代からのフォークリバイバルに乗って、第2期のカーター・ファミリーの人気が再燃するきっかけとなった。

重要度 3.5
知名度 3.5
ルーツ度 3.5
好み 3.5
総合 3.5

 

そして、1943年、オリジナル・カーター・ファミリーは解散した。

 

 

 

 

カーター・ファミリー 第二期(1943年〜)

メイベルカーター&カーターシスターズ

【メンバー】

  • Maybelle Carter(メイベル・カーター):歌、ギター、バンジョー
  • Helen Carter(ヘレン・カーター): 歌、ギター、アコーディオン
  • June Carter(ジューン・カーター):歌、オートハープ、ダンス、コメディ
  • Anita Carter(アニタ・カーター): 歌、 ギター、ウッドベース

 

オリジナル・カーター・ファミリー解散後、メイベルカーターは、すでに音楽や楽器には幼い頃から触れていた自分の娘たち3人とバンドを組んだ。

3人共にそれはメイベルの娘ということで、幼いながらも音楽の才能に溢れていた。早速活動を始めてから間もなく、バージニア州リッチモンドのラジオ局でデビューを果たす。最初のリリースは1949年。するとたちまち人気が出た。

しばらく活動をした後、テネシー州のノックスビルのラジオ局へ移動。そこでチェット・アトキンスと出会う。そして1950年に、ついにテネシー州ナッシュビルで史上最長と言われるモンスター・ラジオステーションの「グランド・オール・オプリ」へ出演することになったのである。

その後はエルヴィス・プレスリーやジョニー・キャッシュなどの大物とも仕事をすることが増え、名実ともにカントリー・ミュージック界のトップ・アーティストへとなっていった。

1960年、オリジナルのA.P.ファミリーが亡くなったため、カーター・シスターズの名前を改め、「カーター・ファミリー」とした。これこそが、まさに第二期のカーター・ファミリーとなった。

彼女たちは、カーター・ファミリーに属しながらも、各々にソロ活動やデュエットを重ね、また家庭を作っていったりした。そんな中、1967年にはメイベルとサラが再会し、アルバムを作った。

第二期については、年代的なこともあってたくさんの動画が残っている。また、いろんなミュージシャンたちとのコラボレーションや交流をしていたこともあって、カバー曲やオリジナル・カーター・ファミリー曲の演奏が多い。

撮影の年代等不明なものも多く、順番はバラバラだと思われるが、インパクトのあるものを数曲紹介したい。

 

「The Day They Laid Mary Away (1949)」

カーター・シスターズの録音としては初期のものである。アニタ・カーターはこの時まだ16歳だが、早くもその天性と言われる歌声を聴くことができる。ちなみにアニタはウッドベースも弾いていて腕前もかなりのようであった。

さらにこの頃から天才的なギタリストであるチェット・アトキンスと一緒にやり始めている。

重要度 3.5
知名度 2.5
ルーツ度 3.0
好み 3.5
総合 3.0

 

 

「Looking For Henry Lee(1952年)」

当時のカーター・シスターズはご覧のようなTVショーによく出ていたようで、記録もたくさん残っている。4人全員が揃っているので、それぞれの立ち位置なんかも見ると面白いのだが、この頃は完全にジューンが主導権を握っているようで、マザー・メイベルはそれを静観しているような感じ。

シスターズの中でも、ジューンはよく喋り、面白くて完全にエンターテイナーとして成長している。ヘレンとアニタは少し照れがあるようだが、そのバランス感がいいのかもしれない。

重要度 3.0
知名度 2.5
ルーツ度 3.0
好み 3.5
総合 3.0

 

 

「Wildwood Flower(1953年)」

おそらくカーター・ファミリーのYou Tube動画で最も再生回数が多いのはこれではないだろうか。

オリジナル・カーター・ファミリーの時からの代表曲には変わりはないが、とにかくこのグランド・オール・オプリでのスタジオライブ動画が素晴らしい。僕も初めて観た時鳥肌が立った。

「カッコいい・・・」

もちろん、主役はシスターズの4人だ。マザー・メイベルのギタープレイを観た時感動した。まさにこれこそがカーター・ファミリー・ピッキングである。シスターズの3人もいい感じ。そして、何気にバックのウッドベースとブラシ・スティックのドラムもカッコいいのである。

これぞカントリーといった感じで、ここからブルー・グラスやロカビリーにもなり得るスタンダードかつ超重要な、僕自身も何度も観ている大好きな曲でも4.5個

重要度 4.5
知名度 4.5
ルーツ度 4.0
好み 4.5
総合 4.5

 

 

「Sweet Talkin’ Man」

これも有名な動画である。年代があまりハッキリしていないが、何よりも急に映像が鮮明になって奇跡的にキレイだ。

チェット・アトキンスのギター・ソロがフィーチュアされているのも素晴らしいが、カーター・ファミリーの仲の良さがわかるのもいい。ジューンがヘレンにちょっかいを出すのも微笑ましいし、この頃から急激にアニタが女性っぽく可愛くなってきているのもまたいい。この頃から”アパラチアの天使”などと呼ばれ始めている。

重要度 3.0
知名度 3.5
ルーツ度 3.0
好み 4.0
総合 3.5

 

 

「It’s My Lazy Day(1957年)」

こちらは1957年のグランド・オール・オプリでのライブ。ジューンはやっぱりコメディの方へ向かっているのだろうか?ところでベースを弾いているのは誰?

重要度 2.5
知名度 2.0
ルーツ度 3.0
好み 2.5
総合 2.5

 

 

「Where You There (1960)」

グランド・オール・オプリなどを通じて、いろんなミュージシャンと出会いが多かったカーター・ファミリー。ジョニー・キャッシュもそんな一人であった。この動画では一緒に演奏しているが、後にジューンと結婚することになる。

重要度 3.5
知名度 3.5
ルーツ度 3.5
好み 3.0
総合 3.5

 

 

「Broken-Hearted Lover(1963年)」

随分と音が洗練されているが、ジョニー・キャッシュの音作りに近いと言えば説明がつく。このアルバムは一緒に作っており、よりカーター・ファミリーと親密になるきっかけとなった。

この頃からメンバーはそれぞれにソロ活動をしたり、メイベルは復活したサラと一緒にやったりもして、しばらくはバラバラになることも多かった。

重要度 3.0
知名度 2.5
ルーツ度 3.0
好み 3.5
総合 3.0

 

 

「A Song to Mama」

おそらく1970年代の始めぐらいに行われたデンマークでのライブ。カーター・シスターズとジョニー・キャッシュからメイベル・カーターへ贈る曲。感動的だ。最後の方はメイベルも涙ぐんでてこっちも泣きそうになってくる。

重要度 3.5
知名度 3.0
ルーツ度 3.5
好み 4.0
総合 3.5

 

その後、1978年にメイベル・カーターは永眠した。

 

 

「gove scrivenor and Carter Family gals.. June… Helen and Anita(1986年)」

最後になるが、ちょっと飛んで1986年のセッションから。少し長めでテスト的に撮ったらしいが、内容は素晴らしい。

まず、正直アニタの姿を見てビックリ、というかショックを受けてしまった。最初は誰だかわからなかった・・・。まあ人それぞれいろんな事情はあるだろうけど・・・。ただそうは言っても、シスターズの音楽は健在で、やっぱりアニタの声は本当に素晴らしいと実感した。

ヘレンもジューンも現役だからみんなさすがだし、また、ジューンの娘であるカーリーンも入っていて貴重な映像だ。
こういう当時のビデオを見ると、周りの親類や友人などもみんな普通に楽器を演って、誰でも歌えるような音楽の世界に囲まれてる生活なんだと思わされる。こんな環境で育った人間に勝てるわけないなとふと感じてしまったのであった。

重要度 3.5
知名度 3.0
ルーツ度 3.5
好み 4.0
総合 3.5

 

 


カーター・ファミリーはこの記事でも紹介してきたように、活躍したした期間がとても長く、またいろんなことがありすぎて、それこそ一つのストーリーになっている。楽曲にしてもテクニックもそうだが、メンバーの個人的なプライベートやたくさんのミュージシャンとのコラボなどネタが本当に多い。

まあそれだけ人間らしさというか、自然な感覚を音楽の中に取り入れながら本当に素晴らしい作品をたくさん遺している。

特に第二期のカーター・シスターズ以降の映像が面白く、僕個人としてはアニタ・カーターが好きで何度も観まくった。

曲ランキングは付けていないが、どの曲もかなりレベルが高く、実際に聞いたことがあるようなメロディやフレーズも多いことから、それだけ影響を与え続けていることがわかる。

20世紀のカントリー・ミュージックシーンにおいて常に中心に居続けたカーター・ファミリー。この歴史的なグループを後世にまで伝えていくのが僕の役目かなとおこがましくも思っている今日この頃である。

 

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