”ゴスペル音楽の父” トーマス・A・ドーシー
「ゴスペル」の名付け親であり、元々はブルースマンのピアニスト「ジョージア・トム」という肩書もあり、そして生涯で1000曲以上作曲をしているコンポーザーとしての顔を持つ、まさしくゴスペルの生みの親である。
トーマス・A・ドーシーに関しては、ピアニストで作曲家ということもあり、自身がメインで歌うことは少なかった。
しかしゴスペルというジャンルを生み出し、ゴスペルを広めていったという点でもはや大功績なのはいうまでもなく、後に彼の曲をたくさんのシンガーが歌っていることからもその影響力の大きさは計り知れない。超重要な人物である。
ここでは、トーマスがゴスペルを作っていった流れと、外せない代表曲を少し紹介する程度になってしまうが、ゴスペルを語る上では知っておかなくてはならないと思うので、書いておきたい。
なお、そういうワケで曲紹介を必要なものに絞っているため、ランキング形式にはしていない。
ゴスペルの誕生
トーマスは父親が牧師で、幼い頃から教会に入り浸っており、母親が演奏することもあって家にオルガンがあり、宗教と音楽に囲まれて育った。
10代半ば頃は、黒人の社交場である「ジューク・ジョイント」などの夜の盛り場でピアノを弾いていた。この頃からブルースを知るようになる。
その後、10代の後半になると、よりよい生活を求めてシカゴへ移動した。
トーマスは「トーマス・A・ドーシー」として賛美歌などをレパートリーとしてやっていくつもりであったが、経済的にはかなりしんどかったようである。
そんな事情もあって、しばらくは「ジョージア・トム」という名で世俗的なブルースマンとしてキャリアを積み、シカゴでは名が通るようになった。
・1924年、「ジョージア・トム」として活動していたトーマスは当時人気のあったマ・レイニーのバンド・リーダーとして活躍したことをきっかけにバンド・リーダーとしての才能を発揮して、いくつかのバンドを渡り歩いた。
・1926年〜1928年にはチャールズ・ヘンリー・ペースのグループである【ペース・ジュビリー・シンガーズ】のピアニストとして活動した。
【ペース・ジュビリー・シンガーズ】は牧師として偉大であったチャールズ・アルバート・ティンドレイの作った賛美歌などをレパートリーとした。その中には名曲「スタンド・バイ・ミー」もあった。この頃レコーディングしたものが、賛美歌にピアノなどの伴奏を付けた形となって、初期のゴスペル録音と言われている。
「Old Time Religion(1928年)」
タイトルにReligion(宗教)と入っている時点でゴスペルであることがわかる曲。また、ペース・ジュビリー・シンガーズは1929年に活動を止めている。
重要度 | 4.0 |
知名度 | 3.5 |
ルーツ度 | 4.0 |
好み | 3.0 |
総合 | 3.5 |
ブルースとゴスペル。つまり世俗と福音という相反する精神性を並行して音楽という括りの中で生活していたトーマス。直接の原因は不明だが、この頃極度のうつ病に悩まされていたようだ。
ある日教会の礼拝でトーマスは世俗への想いを断ち切るかのように、ゴスペルに集中することを誓い、いっぱい曲を書いたが、なかなかうまく行かなかった。
そしてブルースの方側へ寄るようになった。。。
そんな中、1928年にタンパ・レッドと共同で出した「It’s Tight Like That」という曲がバカ売れすることに。
なんと700万枚!皮肉にもこの曲はトーマスにとって自身最高のヒット曲となったのである。
でもこの曲、とにかくカッコいいのでまずは聴いてみて欲しい。
「It’s Tight Like That(1928年)」
ゴスペルとは程遠い曲だ。実際歌詞の内容もかなり世俗的で、性的で卑猥なことを暗示したり、ユーモアに富んでいる。こういったブルースを「ホクム」と呼ぶが、タンパ・レッドは得意としていた。
それから曲の方はほとんどギターしか聴こえていないような感じだが、ロックンロールのような軽快なフレーズになっているのがおわかりになるだろうか?
1928年の時点で、後のR&B、R&R、ロカビリーといったジャンルにつながっていくのが手にとるようにわかる。
これは確かに賛美歌やゴスペルとは全く違うが、結局700万枚も売れたことが広まった原因になり、とんでもないくらい歴史的に重要な曲であることは事実である。
重要度 | 4.5 |
知名度 | 4.5 |
ルーツ度 | 4.5 |
好み | 4.0 |
総合 | 4.5 |
トーマス・A・ドーシーがゴスペルへ傾倒したきっかけ
1929年、世界的な大恐慌が起きる。このことがきっかけでトーマスは、失業者や貧困にあえぐ人々に救いの歌を作るようになる。
1930年にトーマスはセオドア・フライという作曲家とともに、バプテスト教会で最初の合唱団を結成する。セオドアはトーマスの持っていたブルース的な要素に惹かれ、積極的に出していくように促した。
トーマスの教会音楽とブルースを融合した「ゴスペル」という音楽はどんどんと広がりを見せていく。
1932年、トーマスはシカゴ、全米にゴスペル合唱団を作って、全国的な組織にするべく動き始めた。
アメリカの音楽出版社がアフリカ系アメリカ人への待遇に不満であることを受け、トーマスは黒人専門の出版社である「ドーシー・ハウス・オブ・ミュージック」をシンガーのサリー・マーティンとともに設立。
順風満帆にいっていると思われたトーマス・A・ドーシーだったが、突然に不幸が重なる。
最初の妻であったネティハーパーが出産時に難産で亡くなってしまい、さらに産まれてきた赤ん坊も2日後に亡くなってしまう。放心状態になったトーマスは思わず「主よ・・・」とつぶやいたが、その悲しみは名曲「Take My Hand, Precious Lord」を生むことになるのであった。
神に祈り、信じ続けることでしか、自分を救える道が思いつかなかったのであろう。
「Take My Hand, Precious Lord(1932年)」
この事件をきっかけとして、トーマスは本格的に「ゴスペル」という音楽に身を捧げるようになっていった。
しかし音楽的には、悪魔の音楽「ブルース」などの世俗的なものを教会に持ち込んだとして一部には非難された。
ただそうはいっても、彼はゴスペルを発展させるきっかけを作り、商業化させた最初の人と言えるし、その後も音楽監督などで振興やビジネス面でもかなり寄与したのは忘れてはならないことである。
また、この曲はマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)のお気に入りであったが、暗殺されてしまったため聴かせることは叶わなかった。彼の葬儀の際には、マヘリア・ジャクソンが歌った。ゴスペル界にとってはもちろん、後世にとっても最重要曲である。
重要度 | 5.0 |
知名度 | 4.5 |
ルーツ度 | 4.5 |
好み | 3.5 |
総合 | 4.5 |
曲紹介
冒頭にも書いたが、トーマス・A・ドーシーは生涯でゴスペルの曲を1000曲以上作っている。※(ブルースは2000曲とも!)
たくさんのアフリカ系アメリカ人の合唱団とも交流があり、トーマスは教会でも歌を歌う時に、譜面を見ずに体を動かして、リズムを取って感情を出すように教えた。
そして、その要求は彼の曲を歌うシンガーたちにも同じことだった。彼らはゴスペルを歌うことで、より感情移入し、苦痛からの解放が出来るようになった。南部から北部へ希望を抱いて大移動したアフリカ系アメリカ人にとって、ゴスペルは欠かせないものとなった。
そうしたトーマスの幅広く大きな活動によって、教会だけでなく、一般的にも「ゴスペル・ミュージック」という音楽ジャンルを広めていった最大の功労者である。
彼の主な代表曲を見てみよう。
「If You See My Savior(1926年)」
この曲はトーマスの最初期のゴスペルソングで1926年にリリースされているが、トーマスにとっての最初のヒット曲となったので押さえておきたい。
重要度 | 3.5 |
知名度 | 4.0 |
ルーツ度 | 4.0 |
好み | 2.5 |
総合 | 3.5 |
「Peace In The Valley(1973年)」
この曲はトーマス・A・ドーシーが1937年にマヘリア・ジャクソンのために書いたと言われる有名なゴスペルソング。
動画は1973年のアルバム「Precious Lord:New Recordings of the Great Songs of Thomas A. Dorsey」という名シンガーたちによるトーマスのトリビュート・アルバムから、ロバート・H・ハリスの熱唱が聴ける。ソウルっぽいアレンジで個人的にはかなり好き。
ロバート・H・ハリスはThe Soul Stirrers(ザ・ソウル・スターラーズ)の初代リード・ボーカリストで、サム・クックなどに多大な影響を与えた。
重要度 | 3.5 |
知名度 | 4.0 |
ルーツ度 | 4.0 |
好み | 2.5 |
総合 | 3.5 |
「It’s a Highway to Heaven(1973年)」
こちらも1973年のトリビュート・アルバムからで、シンガーはAlex Bradford(アレックス・ブラッドフォード)。Alex Bradfordはリトル・リチャードやレイ・チャールズ、ボブ・マーリィなど多くのレジェンドたちにも影響を与えた実力派である。そのソウルフルな歌声には本当にシビれる。
また、トーマスのこの曲もたくさんカヴァーされており、ゴスペルのスタンダードとなっている曲。
重要度 | 3.5 |
知名度 | 4.0 |
ルーツ度 | 3.5 |
好み | 4.0 |
総合 | 3.5 |
まだまだ他にも書くことはいっぱいあるくらいにトーマス・A・ドーシーは偉大すぎて、少しづつここでもトピックなんかを足していけたらと思う。
その他の代表曲
トーマス・A・ドーシーは何千曲も作っているのだから、代表的な曲はいっぱいあるかとも思うがありすぎてなかなか絞りきれない。もちろん全て聴くことなどまず不可能だ。
しかもシンガーがいろいろいるので、単純に曲だけで良し悪しを判断するのも難しい。よってこれからもたくさん聴いていくトーマスの曲の中で、紹介したほうが良い思ったものから順次ここに書き足していこうかと思う。